映画を観るときにはホットコーヒーとパイの実をなるべくおともにしている。それからめがね。めがねは日常的にかけているわけではない。視力は両目で1.0あるかないか程度。したがって、めがねのない生活にそれほど支障はない。でもなんとなくめがねを持っていく。なんとなく。めがねをかけずに映画を観るとなんとなく物語や登場人物の心情の細部を見落としてしまっているような気分に苛まれる。なんとなく。
今日、『スウィート17モンスター』を観た。原題は“The Edge of Seventeen”。主人公ネイディーンの抱えるコンプレックスをまざまざと見せられ、思わず自らのコンプレックスを省みた。帰宅後、風呂上がりに髪を乾かす際に自分の身体的なコンプレックスを頭から足にかけて鏡を見ながらふと考えた。過度な直毛、でかっ鼻、顔の毛穴のよごれ、脇腹の気胸の手術跡、腹部の膨らみ、パンツゴムの擦れ痕、陰部のサイズ。精神的なコンプレックスも考えたけど文章も心持ちもじめじめしてしまうので割愛する。
劇中、車がネイディーンの心情を上手に表していた。学校に行きたくないとき、家に帰りたくないとき、親をやかましく思ったとき。車中にいるときは、どこか背伸びをしたり、かと思えばとことん感情のままになれたり、やっぱりなおも卑屈になったり。その気持ちの揺れ動きが上手に表現されていた。その表現があったからこそラストシーンがいきていた。
ネイディーンは母親にたいして横柄な態度をとっていた。幼少期から母親の性格に嫌悪感を示していたネイディーンだったが、よき理解者であった父親を亡くし、思いの逃しどころがなくなってしまったことで悪態が加速する。学校の送り迎えにおいて、絶交してしまったかつての親友クリスタと鉢合わせまいと降車を頑なに拒否するシーンに特に共感を覚えた。
高校生のころ、私は雨の日に送り迎えを母に頼むことが多かった。車を降りる場所はなるべく同級生や後輩がいないところを選んだ。というのも、母の姿や乗っている車を見られなくないという気持ちが強くあったから。今となってはそんなことどうでもいいじゃないかと思うが、当時の私にとって知り合いに私の母親がどんな身なりをしていて、どんな車に乗っているか見定められることが喫緊の問題であり、そのことにひどく怯えていた。いがみ合う劇中の親子をきっかけにその頃の記憶が突如としてあぶり出された。
先生、隣の席のアーウィン、兄ダリアンはネイディーンの自尊心の扱い方がうまかった。ああいうあまたのコンプレックスを抱える人に対してはストレートにものを言い過ぎてはいけないし、美辞麗句を武装してかかってもいけない。ほどよく自尊心をくすぐるのが吉だ。でないと、おもむろに牙をむき出しにするし、本人は褒め言葉だと信じてやまない中傷をかましてくる。劇中にたびたび描かれるネイディーンのぶきっちょさに共感すると同時に救われた気持ちになった。
ネイディーンを演じるヘイリー・スタインフェルドはアルバムを少しかじったことがある程度だが、その頃の容姿よりふっくらしていたように感じた。そしてどこか私が好きな三浦透子さんに似ているように感じた。
リア充として描かれるダリアンはまだしも、アーウィンもムキムキなことに人生の不条理さを感じつつ、筋骨隆々な方が薄着のインナー(淡色が至高)を着てるのほんとすきとフェチとコンプレックスを感じながら横になろうと思う。