【雑記】祖母からの電話

 先日、夜に実家の祖母から電話があった。こないだ贈った座椅子を喜んでくれたようで、そのお礼の電話だった。帰省した際、祖母は元気がなく心配だったので、久しぶりに明るい声色を聴けて嬉しかった。

 年末に突然祖父が亡くなった。クリスマスイブの夜、オードリーのチャリティーミュージックソンを聴きながら卒業論文を進めていたら兄からその連絡があった。年始に卒論の提出期限を控えていたが、年明けすぐにある内定先の懇親会との兼ね合いから、年内に卒論を提出して年末は実家でゆっくり過ごす予定だった。予定とはかけ離れた慌ただしい年末となった。卒論はひとまず後回しにして、27日に帰省した。私が卒業論文にとりかかっていることをなんとなく知っていた父は、通夜や葬儀に間に合うよう私に無理して帰省してなくてもいいと母に言っていたそうだが、それは優しさが過ぎると父には言わなかったが思った。

 通夜に間に合うよう帰る予定だった。しかし、通夜には結局間に合わなかった。というのも、特急に乗るまでの待ち時間にホーム内の待合室に滞在しすぎてしまったからだ。通夜や葬式の式次第はどんなものか、服装はどんなものか携帯で調べながらぼんやり考えていると、祖父がいなくなってしまったことを改めて実感した。ふと気がつくと特急はちょっと前に駅を出発していた。通夜には出席できなかったが、最寄駅まで迎えに来てくれた姉と姪と一緒に通夜後の斎場へ行った。

 家に帰ると親族や近隣の方達が仏間で食事をしていた。経机には祖父の遺影が飾られていた。夏に祖父に贈ろうと思っていた股引をプレゼントできないままだったなあと思いながら手を合わせた。葬式の日、誰にも話したくない思い出の品を模したものを紙で作った。それを祖父の棺にこっそり入れた。

 思えば、祖父の行動のほとんどは褒められたものではない。食事中にご飯茶碗にお茶をそそぎ入れ歯を洗い始めるし、鍋やフライパンに残った少量のおかずを箸やお玉で音を立てて何度も取るし、戸を開けたままトイレで用を足すし、風呂で自分が体を洗うために使ったタオルをその後に風呂に入る人たちが使うと信じて止まず浴室に残していくし(それを母がいつも回収している)、家族それぞれのスリッパを勝手に履いて水虫を家族内で蔓延させるし、自分の気に食わないことがあると「へっへっへ」と笑ってごまかす。でも周囲に温かい優しい祖父だったとたしかに思う。祖父のことを思うとくすりとしてしまうことばかりだ。それに加えて今はちょっとほろりとくる。 

 祖父は廊下にあるマッサージチェアが好きだった。たぶんそこから見える景色も好きだったのだと思う。玄関がその直線上にあるので、家族の帰宅や来客がすぐわかる。私が小学生のとき友達と庭で遊んでいた様子もマッサージチェアに座りながら眺めていた。仏間やその隣の和室で私と姉と姪甥が話している声が聞こえると、他の部屋から移動してマッサージチェアに腰掛け会話に参加するわけではなく静かに耳を傾けていた。帰省している間に、ふと思い立ってマッサージチェアのある廊下の窓拭きと障子の張り替えをした。

 帰省中、仏間の隣の和室にはこたつが用意されていた。普段、祖母は居間にいることが多いが、年末は和室のこたつでよくゆっくりしていた。仏間とを仕切る襖を少し開けて経机が見えるようにしていた。もともと私の部屋だった一室が物置部屋になりつつあったのと、祖母と一緒に過ごしたいと思いもあり私もなんとなくそのこたつでゆっくりした。

 祖父は日記をつけることを習慣にしていた。亡くなる二日前まで日記が書き記されていた。最近は足腰が悪く外へ出歩くのも億劫になっていたし、もの忘れも多かったけど、自分のこれまでの習慣をそれでも続けようと、思い出や大事なことを書きのこそうと抗う姿がそこにあった。10月に帰省した際、もの忘れの多い祖父母がいつでも思い出せるよう、私が春からどこで働くかについてと最近の近況を手紙にしてそれぞれに手渡した。それを貰ったことや、就活で頻繁に帰省してくれること、実家の近隣の県で働いてくれることが嬉しいということを日記に書き残していて余計にやりきれない気持ちになった。

 悲しい気持ちはたしかにある。けれど、泣くのは嫌だ笑っちゃおうという「ひょっこりひょうたん島精神」で周囲にはふるまいたい。そういうところが祖父に似ているなと感じる。今度は四十九日に合わせて帰省する予定だ。