【本】山﨑佐保子『おじいちゃん、死んじゃったって。』

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 11月4日(土)から順次全国上映される岸井ゆきのさんが初主演を務める『おじいちゃん、死んじゃったって。』の原作本を読んだ。

 

 家で読書をするのが苦手だ。うるさすぎないくらいの周囲の音がある場所で本を読む方が集中できるし好きだ。今日もその習性に従って読書のために外出することにした。夕方に外出する際に、巻いた腕時計に目をやると針の指す時刻は現在時刻と比べてずいぶんと遅れていた。秒針が止まっているようで、どうやら電池切れかもしれない。こんな状況になったときには、試しに竜頭を引っ張り元に戻すという行動に出る。というのも、接触の問題なのか、こうすることで再び時計が時間を刻み出すことがしばしばあるのだ。交差点の信号を待つ間、竜頭を引っ張っては元に戻す作業を繰り返した。しかし、今日はそれを何度試しても腕時計の秒針が動き出すことはなかった。あぁ、いよいよ電池を交換しないといけない。

 

 喫茶店に着いて『おじいちゃん、死んじゃったって。』を読んだ。岸井ゆきの演じる吉子の祖父・功が亡くなったところから物語は始まる。功の死がきっかけとなり、吉子をはじめ家族たちの潜在化していた功との思い出や死の捉え方、自身のこれまでの人生に対する感情が揺れ動き始め、ときにほかの家族をも巻き込みながら振動していく群像劇の様にすっかり引き込まれた。

 

「おじいちゃん、死んじゃったって!」

 私は、その言葉を自分の口で発して初めて、「おじいちゃんが死んだ」という事実を知ったような気がする。それは誰か他人の声のように聞こえた。(吉子)

 生も死も存在しない無機質な空間で、私はそんなことを考えていた。ふと、生きているお父さんと会話することはもうできないのだなと気づき、胃のあたりから重く湿った塊みたいなものがこみ上げてきた。(薫)

 新宿で電車を乗り換え、生まれ育った町に近づいていくにつれ、僕の心臓は縄できつく縛られるようにキリキリと痛んだ。そういえば新田に借りたままの本を返していない。まだあの本棚にあるだろうか。(中略)新田が死んだことを知らず、ばったり新田に会うかもなんて思っていた僕は、なんて間抜けであほなんだろう。(清太)

 吉子をはじめ、吉子のおば・薫、吉子の弟・清太もふとそれぞれの現在や過去を顧みながら功の死を想う瞬間がそれぞれにあり、不可逆な出来事に出くわしたときにじんわりと実感を伴ってくる瞬間を描く場面は特に噛み締めながら読んだ。

 

 私の実家では、両親と父方の祖父母がともに暮らしている。大学へ進学するまでは実家で暮らしていたのでそのときの生活を反芻しながら文章を読み進めるうちにあることを思い出した。私は、中高生のころアメーバブログを書いていた。そのときになにがきっかけだったのか、祖母の先が長くないことを書いた。おそらく、祖母が以前より台所に立つことが少なくなり、足腰の痛みもあって外に出かけることが少なくなったことを悲しんでいたのだと思う。そのブログは私の姉もときおり(おそらく私が思う「ときおり」より頻繁な「ときおり」だと思う)チェックしており、その記事を見かけた姉は不謹慎なことを書くなと私をいたく叱った。

 

 私の祖父母は物忘れが以前より多くなっており、日にちがわからなくなったり、同じことを何度も聞いたり、さっきまでしていたことを忘れてしまうことが少なくない。もちろんそのことに対してショックや寂しさはある。就活で帰省した際に、親戚の勤め先についての話を祖母から幾度となくされた。それでもその現状を受け止めた上で、悲観しすぎず自分が祖父母に何ができるか。また、顔には出さないけれど心労を抱えているであろう両親にどんな寄り添い方ができるか考えるようになった。(こんな風に考えられるようになったのは映画『徘徊 ママリン86歳の夏』を観たのも一つのきっかけである)

 『おじいちゃん、死んじゃったって。』の中でも、吉子の祖母・ハルが家の庭でおしっこする場面があった。私の祖母は数年前からおむつをするようになった。洗濯をする際に祖母の衣類からおしっこのにおいがすることがはじめはとてもショックだった。しかし、何がきっかけだったか、おしっこのにおいはつまりは生きているにおいなんだと思えるようになってからずいぶん気持ちが楽になった。

 祖父母が家の中に孫の栄誉あるものを飾っていることについて本作の中で描かれているが、ここでも私の祖父母の部屋が思い出された。私は二度大学受験に挑戦したのだが、二度目の受験にあたって書道で浪人への意気込みを書きなぐった。数日してその言葉を改めてみるとどうにもむずがゆく痛々しい気持ちになってごみ箱に捨てた。ある夜、お風呂から上がったことを祖父母に告げに部屋へ行くと祖父母の部屋の壁に私の書いたあの自惚れたポエムが飾られていた。どうやら祖父がごみ袋から見つけ回収したらしかった。最近までずっとそれが貼られていたのだが、昨年秋にTOBICHIへ行った際に開催していた水縞「KOTOWAZA」展で購入した「笑う門には福来たる」ポスターを実家へ送り、母親に頼んでこっそり取り替えてもらった。

 

 なんで今になって涙が出てくるんだろう。なんでおじいちゃんを送るとき、涙は出なかったんだろう。人は現実より、記憶や思い出の中での方が、濃厚に生きられるのかもしれない。(吉子)

 この部分を読んだときに、普段の生活における自分の習性や、祖父母との記憶や思い出をあれこれ振り返る自らに対して、またなぜか映画『ムーンライト』でのシャロンの気持ちを思い出してなんだか納得してしまった。

 

 本を読み終えて家に帰ろうとして、腕時計に無意識に目をやってしまった。三つの針が全て止まった腕時計がそこにあった。電池を交換すればまた使えるようにはなるものの、時計は止まってしまった。その事実の認識とその認識が実感を伴うまでの時間のずれが誰かの死を受け止める認識とどこか似ているような気がした。

 

 あした晴れた 日にもなれば 楽しいこと想うはず

 泣くな友よ 明日になれば 嬉しいこと起こるはず

 戻る道は もうないと思えよ

 映画『おじいちゃん、死んじゃったって。』は宮城県では仙台駅東口出てすぐそばにある映画館チネ・ラヴィータで12月9日(土)から公開されるようで、ぜひとも観に行かねばと思っている。だがそれまでに、11月あたまに大阪へ訪れる機会があるのでテアトル梅田で観るのもよさそう。Yogee New Wavesの映画主題歌を聴いて映画を観るのがますます楽しみになった。