【雑記】五つ数えたら三日月が

 11/113時起床。今日はマラソン疲労が出るだろうと考えて年休をとった。二度寝して6時起床。朝ごはんを食べた後に『俺の話は長い』第3話其の七「アイスと夜の散歩」を観る。ヤスケンさん演じる光司さんと清原果耶さん演じる春海さんがコンビニへアイスを買いに行くシーンが印象的だった。親族や職場、友人関係なんかでしばしばある、5人くらいだったら話すだろうけど、2人になると話しにくい関係を丁寧に描いている。

 ドラマや映画だと、全員が揃ったときの賑やかな掛け合いや、組み合わせがいい少人数の関係性を描きがちだけど、このドラマでは舞台のような会話の掛け合いを展開するシーンがあれば、気まずい関係が織りなす途切れ途切れの会話も描いている。

 第2話 其の四「コーヒーと台所」も印象的な話だった。瞬間的に誰かに寂しい想いをさせてしまうし、当人ももやもやした気持ちになってしまうけど、その人が周囲の状況を変えるために必要な苦々しさを描いていた。このドラマのほころんだ関係性から紡がれる心情や会話を大事にしているところが好きだ。

 今日は歯医者の定期検診。行きの道では膝が痛む。今回はここ最近担当してくださっている歯科衛生士の方ではない方だった。もしも同じ担当の方だったら、口内噛み癖について話そうかと思っていたけどまた今度することにした。

 そういえば、ブラシ磨きのときの歯磨き粉の味がウォーターリングキスミントのマスカット味に似ていた。あの風味に触れると、小学生のころを思い出す。お年玉を貰った年始、地元の倉吉駅の近くにあるハローマックと中古ゲーム取扱店に一人で行っていた。片道バスで30分、運賃540円。帰り道には、パープルタウンの中にあるスーパーあじそうでキスミントを買った。そのガムを噛みながら、バス停で1時間に1本の帰りのバスを待つ。当時の自分ができる背伸びした遠出。

 歯科検診も終わりかけになる。フロスの通りにくいところの話をすると、今樹脂で埋めてるから、代わりにセラミックにするのはどうかと終わりかけになってやってこられた歯科医の方に唐突に提案される。セラミック馬鹿高い。よくそんな金額を穏やかなトーンで言えるなと思うけど、穏やかなトーンで返す。店内ではアラジンのサントラが流れている。そのときはナオミ・スコットのスピーチレスが流れていた。次の予約はいつにしますかと言われ、ネットでまた予約しますと適当なことを言ってしまった。

 午後からカウンセリングへ行く。自分の性格のこと、仕事のこと、セクシュアリティのことなど、最近のことを話した。担当の先生はこないだのカウンセリングと同じ方。前回とってくださっていたメモを確認してくださったりして話しやすかった。こういうことを話そうと思っていたことと、話しながら自分が断片的に考えていたことがつながる瞬間が何度かあった。前回のカウンセリングでは苦手だなと思っていた人や事柄に対して、そこにある事情やどうしようもなさがあることを知って、苦手になりきれない状況にあることなどを話した。

 帰宅。コーヒーを淹れて、図書館から借りた李琴峰『五つ数えたら三日月が』を読む。

 近郷情怯、という中国語の成語がの脳裏を過った。長年帰郷していない旅人がいざ故郷に帰ろうとする時、気持ちが逆に怯えてしまうという意味。自分のいない間に何かが変わってしまったらどうしよう。自分のことを知らないであろう子供達にはどんな顔で何と言って挨拶しよう。故郷の人々が自分を忘れてしまっていたらどうしよう。今の自分を受け入れてくれなかったらどうしよう。

(李琴峰『五つ数えたら三日月が』より)

 時間なんて止まってくれればいいのに、と年甲斐もなく思った。明日になれば、実桜は成田空港で台中行きの飛行機に乗り、彼女を待っている家族のいるところへ戻る。東京と台中の直行便が最近できたみたいだった。私はと言えば、また変化のない日常に呑み込まれ、満員電車に揺られて出社し、生活のためにワードとエクセルとパワーポイントと戦うことになる。自分も持っていないし運用したこともない投資商品をエリートサラリーマン達に売りつけることになる。そうやって世の中のお金が回っていき、時代は先へ先へと突っ走って行く。ビッグデータ人工知能、シンギュラリティ、東京オリンピック。降って湧いたような数々のバズワードに象徴される時流に置き去りにされないよう、効率と生産性を追い求めるために、人間は懸命に走り続けるしかない。私も走り続けるしかない。走るのを止めたら、日本に住むことすらできなくなる。この時代では、置き去りにされた記憶、取り残された感情にはさほど価値がなく、古臭いセンチメンタリズムに消費される時間も意味が認められない。だからたとえ五年ぶりの再開でも、感傷に与えられる時間はそれほど長くはない。

(李琴峰『五つ数えたら三日月が』より)

 かき氷を食べ終え、空になった紙コップを身体の横に置いた。鞄は左脇に挟んでいて、その中にカードが入っていた。渡すならお互い無声に陥っているこの瞬間が好機だ。私は心の中でリハーサルを行った。何ともない顔をして、急に思い出したように、あ、そうそう、とか、そう言えば、とか、それらしきまくら言葉を差し挟んで、流れるような自然の動きで右手を鞄の中に入れてカードを取り出し、渡せばいい。会うの久しぶりだからカードを書いちゃった、読んでみてね、とか、そんな言葉を添えながら。三十にもなった人が女子中学生みたいなことをして実に恥ずかしいんだけど、とかそんな意味合いのはにかみを適度に作り出すことができれば、なお自然に映るだろう。

 しかしそれができなかった。金縛りに遭ったかのように、私はただ実桜もかき氷を食べ終わった。私が自分のコップを差し出すと、実桜は無言でその上に自分のを重ねた。

(李琴峰『五つ数えたら三日月が』より)

 じゃ、お元気で。

 駅の改札を通り、違うホームへと別れるところで私と実桜はそう挨拶を交わしながら手を振り合った。今日はありがとう、楽しかった、また会おう、とそんな常套句を口にした。何一つ虚飾のない本当の気持ちだけれど、誰もが口にしている言葉であるが故に、気持ちそのものまで嘘っぽく聞こえてしまったように感じられた。もしそんな言葉を介してではなく、気持ちそのものを自分の中から取り出して、そのまま見せることができたらどんなに良かったのか、とぼんやり考えた。

(李琴峰『五つ数えたら三日月が』より)

 図書館で借りた本を続けて読む。おぎやはぎ『地味ですが何か?』を読む。二人のお互いを肯定するやりとりがずっと続いて心地いい。

 矢作「僕の場合、ストレスっていうか、「心が汚れているな」と思ったら、自分が卒業した小学校へ行くね。校舎や校庭を見て、童心に返るの。1時間くらいいるだけで、心がキレイに洗われるんだよね。普段は夜に行くことが多いんだけど、1度、昼間に行ってみたんだ。校庭の門が開いてたから中に入って、子供たちがサッカーボールで遊んでる姿を微笑ましいなあとか思いながら見てたんだよね。(中略)何で小学校へ行くのかというと、小学校のときがすごく楽しかったから。何も考えずに遊んでいたし、心が真っ白な小学生だった自信があるんだよね。」

おぎやはぎ『地味ですが何か?』より)

 寝る前にTOKYO FM山下達郎のサンデーソングブック』をradikoのタイムフリーで聴く。「いつか」2014年ライブバージョンが番組の最後に流れる。じーんとする。

 読書して寝る。

 大人というものは二種類あると私は思っていた。世界が凝り固まっている人と、まだ柔らかくて自由に形を変えらえれる人。前者は自分の外側にある物事に気付くことによって世界が崩れるのを常に怯えているけれど、後者は新しい事物を自分の世界に取り込むだけの余裕がある。遅かれ早かれみんな前者になるけれど、存在を揺さぶられ、当たり前を疑い、世の中とぶつかって傷つきながら大人になった人ほど、後者でいられる期間が長い。店主の柔らかい微笑みを見ていると、後者なのを直感的に悟った。

(李琴峰『五つ数えたら三日月が』「セイナイト」より)