【雑記】弁当の思い出

ここ最近朝ごはんにミロを振りかけたコーンフレークに牛乳をかけて食べている。コーンフレークはケロッグコーンフロスティかセブンのコーンフレークフロストかプレーンを食べている。前者は食感が軽めで後者は少しずっしりしている。

お昼はできるだけ弁当を持っていくようにしている。背伸びして凝ったことをしようとすると続かないので、決まったものを少しずつ変えて弁当に詰めている。最近は枝豆ときざみ昆布と塩昆布で炊いたごはん、茹で鷄を砂糖醤油酢で和えたもの、ブロッコリーきんぴらごぼう、ゆで卵、プチトマトという組み合わせが多い。時折、茹で鷄が冷凍の唐揚げに、きんぴらごぼうをひじき煮やにんじんしりしりや卯の花に変えたりとマイナーチェンジしたりもする。

こんな風に自分で弁当を作ろうと思いたったのは高校3年生のころだったように記憶している。私は小学生のころからずっと母の用意してくれる弁当が恥ずかしかった。それを学校に持って行って友達に弁当の中身を見られるのが本当に嫌だった(周囲の人たちはたぶんそんなに他人のお弁当を気にしてはいないと思うが)。おかずは周りの弁当と比べると色味が貧相だったし、水筒はパッキンに茶渋が目立っていた。弁当箱からは弁当箱独特のにおいがしていたし、保冷剤からは家のにおいがした。そういうもろもろが本当に嫌だった。私の家庭はそれほど裕福な家庭ではないし、母の作る弁当や弁当箱で自分の家庭状況が友達に見透かされるんじゃないかと怯える気持ちがずっとあった。

年始の弁当には何かの集まりでもらったお弁当に入っていたであろう伊達巻が入っていた。法事があった翌日の弁当にもおそらく会席弁当に入っていたであろう普段あまり見かけることのないおかずが入っていた。二段弁当の一段目のおかずにいかなごが詰めてあるのに、二段目のごはんにもいかなごがよそってあったりしていた。それに追い打ちをかけるように、冷凍の枝豆が一段目のおかず部分の割合を占めることもあった。鯖や鰯の缶詰がおかずとして詰めてあるのも本当に嫌だった。

高校生の頃に、ずっと抱えていた弁当への不満に反抗期も追い風となって、母に腹を立て弁当を故意に持っていかないときもあった。反抗期のとき、なぜあんなに母を突っぱねてしまったのか、日々早起きして仕事や家事を淡々とこなしていた母を想うと、その当時の自分に甘えるなと叱り飛ばしたくなる。そんな日々が続いて母は私に弁当をあまり作らなくなり、代わりにどこかでお昼を買うよう勧めるようになった。

受験期に入ってからなにがきっかけだったかあまり今では覚えていないが、反抗期が和らぎ突如謙虚な心持ちになって今度は私が自分と母の二人分の弁当を作るようになった。基本的に深いジップロックにごはん、その上におかずを乗っけるような、いわゆる「のっけ弁」のようなものを作っていた。帰りにスーパーで買った3個パックのハンガーグを使ってロコモコ弁当みたいなのよく作っていたのをふと思い出した。

結局、母が作る弁当が苦手なことは変わらなかったけれど、それでも時々自分の中で当たりだと思えるおかずの組み合わせの弁当があった。それはごはん、唐揚げ、レタス、ブロッコリー、玉子焼き、プチトマトの弁当。なんだか今現在作っている弁当はそこに大きく影響を受けているような気もする。

こないだ実家へ帰省したとき、ふと思い立って帰省する前日にインドカレーを作った。それをタッパーに詰めて持って帰って家族にふるまったところ、母がしきりにおいしいと言ってくれてそれが本当に嬉しかった。こないだ家に電話したときに、今度レシピを教えてほしいと言っていたので、来週末帰ったときに伝えようと思う。実家に帰ったときは一食くらいはごはんを作るようにしているが、そういうところで作る料理もどこか母が作ってくれたものに似ているのかもしれない。